歴史の裏窓

明智光秀はなぜ信長を討ったのか? 怨恨説以外の多角的な視点と歴史的背景

Tags: 戦国時代, 明智光秀, 本能寺の変, 織田信長, 日本史

本能寺の変、定説としての「怨恨」

天正10年(1582年)6月2日未明、京都本能寺にて発生した織田信長暗殺事件、いわゆる本能寺の変は、日本史上最大のミステリーの一つとして多くの人々の関心を集めてきました。この謀反を起こしたのが信長の有力な家臣である明智光秀であることは衆知の事実ですが、その動機については古来より様々な説が提唱されてきました。

最も一般的に知られている、そして長く定説とされてきたのが、光秀の信長に対する「怨恨」に基づくという説です。これは、『信長公記』などの同時代史料や、後世の軍記物、物語などで広く語られてきました。信長が光秀に対して行ったとされる数々の理不尽な仕打ち、例えば丹波平定後の恩賞に対する不満、宴席での恥辱、所領の没収を示唆する発言などが挙げられ、こうした個人的な恨みが積もり積もって謀反に至ったと解釈されてきました。

しかし、これらの「怨恨」とされるエピソードの中には、史料的根拠が薄弱であったり、後世の創作が含まれている可能性が指摘されているものもあります。また、光秀は信長の天下統一事業において重要な役割を担い、高い地位と豊かな所領を与えられていました。単なる個人的な感情、特に主君に対する恨みだけで、自身の地位や一族の命運を賭して天下人に弓を引くという行為に及んだのか、という点には疑問が残ります。戦国時代の武将の行動原理は、個人の感情だけでなく、より複雑な政治的、経済的、社会的な要因に強く影響されるものです。したがって、本能寺の変の動機を探るには、怨恨説に安易に留まらず、当時の時代背景や他の可能性についても多角的に検討する必要があると考えられます。

怨恨説を超える多様な解釈の可能性

光秀の動機を怨恨だけに求めるには無理があるという視点から、様々な研究者によって他の可能性が探求されてきました。ここでは、広く議論されているいくつかの説をご紹介します。

四国説の複雑性

その一つに「四国説」があります。これは、信長が長宗我部元親に与えようとしていた四国に対する処遇を巡り、それまで長宗我部氏との折衝役を務めていた光秀の立場が悪化したことが動機になったとする説です。信長は当初、長宗我部元親に四国八カ国もしくはその大部分を与えるという方針を示唆していましたが、後に三男の神戸信孝を総大将とする四国征伐軍を編成し、阿波・讃岐二カ国のみを与えるという方針に転換します。

この方針転換には諸説ありますが、光秀が長宗我部氏やその傘下の三好康長と連携して、信長の方針変更を阻止しようとした、あるいは方針変更によって面目を潰された光秀が、長宗我部氏との関係を守るために信長を討った、といったシナリオが考えられています。光秀の家臣には丹波衆が多く含まれ、彼らの旧領である阿波との繋がりも指摘されており、単なる個人的な面目だけでなく、家臣団や地域との利害関係が絡んでいた可能性も示唆されています。ただし、この説を裏付ける決定的な史料は少なく、光秀と長宗我部氏・三好氏との連携の具体的な内容も不明確な部分が多く残されています。

朝廷との関係性

信長は晩年、朝廷との関係において微妙な立場にありました。彼は天皇の権威を利用しつつも、自らの権力を優位に置こうとする姿勢が見られ、朝廷側には警戒感や反発があったとされます。光秀は連歌を通じて朝廷や公家衆との繋がりを持っていたことから、朝廷が信長の専横を恐れ、光秀に信長討伐を唆した、あるいは光秀が朝廷を守るために信長を討ったとする「朝廷説」も存在します。

しかし、この説についても、朝廷が具体的にどのように光秀を動かしたのか、その証拠となる史料は発見されていません。当時の朝廷には信長に対抗できるような武力や政治力はなく、黒幕として機能したとは考えにくいとする見方が有力です。ただし、光秀が朝廷の権威や伝統を重んじる価値観を持っていたとすれば、信長の振る舞いに危機感を抱き、それが動機の一つとなった可能性は否定できません。

その他の説と構造的要因

他にも、室町幕府再興を目指す元将軍足利義昭が光秀に信長打倒を依頼したとする「足利義昭黒幕説」や、豊臣秀吉や徳川家康といった他の有力家臣が裏で糸を引いていたとする説など、様々な黒幕説が存在します。しかしこれらの説はいずれも推測の域を出ず、当時の状況や人物の行動原理を考慮すると、実現性は極めて低いと考えられています。

むしろ、本能寺の変の動機を考える際には、単一の個人や組織による明確な黒幕を想定するよりも、当時の織田政権が抱えていた構造的な問題や、光秀自身の置かれていた状況を複合的に捉える視点が重要であると言えます。信長による急進的な天下統一事業は、旧来の秩序や勢力との激しい摩擦を生んでいました。比叡山焼き討ちに象徴されるような宗教勢力への弾圧、朝廷や将軍家といった伝統的権威への圧力、そして苛烈な家臣統制は、多くの人々に不安や反発を抱かせていた可能性があります。

光秀は、丹波という困難な地域を平定し、信長から高い評価を得ていましたが、同時にその地位や所領は信長の意向一つでどうにでもなりうる不安定なものでした。また、彼は信長から様々な方面での折衝役を任されており、その中で多くの勢力との板挟みになり、複雑な利害関係の中に置かれていたと考えられます。個人的な感情、四国問題に代表されるような具体的な政策上の対立、朝廷など旧勢力との関係、そして織田政権全体の構造的矛盾といった複数の要因が絡み合い、最終的に光秀を謀反へと駆り立てたのかもしれません。

結論:解明されない真実と多角的な視点の重要性

本能寺の変から時を経て数百年、多くの歴史家や研究者がその動機に迫ろうと試みてきましたが、いまだに決定的な証拠は見つかっていません。これは、謀反という性質上、計画の詳細は極秘とされ、関連史料がほとんど残されていないためです。光秀自身がどのような意図を持って行動したのか、その内面を正確に知ることは極めて困難です。

しかし、定説である「怨恨説」のみに囚われず、四国問題、朝廷との関係、さらには当時の織田政権が抱えていた構造的課題や光秀自身の立場といった多角的な視点から考察することは、本能寺の変、そしてその時代の歴史をより深く理解するために不可欠です。個人の感情だけでなく、政治、経済、社会、文化といった様々な要素が複雑に絡み合って歴史上の大事件が起こりうることを、本能寺の変は私たちに示唆しています。

真実は永遠に藪の中かもしれませんが、多様な史料や研究成果を比較検討し、様々な可能性を探求する姿勢こそが、歴史の深層に迫るための重要な鍵となるでしょう。本能寺の変の動機を巡る議論は、今後も新たな史料の発見や研究の進展によって、さらに深められていくことが期待されます。