歴史の裏窓

班田収授法は本当に「理想の土地分配制度」だったのか? 定説に隠された運用実態と衰退の多角的要因

Tags: 班田収授法, 律令制, 古代史, 社会経済史, 土地制度

律令制下の日本において、班田収授法は国家が民衆に土地(口分田)を支給し、その代わりに租税を徴収するという、当時としては画期的な土地制度として位置づけられています。教科書などでは、「律令国家の土地制度の根幹であり、一定期間ごとに土地を再分配することで、農民の生活安定と国家財政の基盤を築こうとした理想的な制度」として紹介されることが多いかもしれません。しかし、この制度は建前通りの理想的な形で常に運用されていたわけではなく、その実態はより複雑であり、また、その衰退も単一の要因によるものではありませんでした。定説として語られがちな班田収授法の理想像の裏側に存在する、運用上の課題や、その崩壊を招いた多角的な要因について掘り下げてみましょう。

理想と現実のギャップ:班田収授法の運用実態

班田収授法は、大宝律令(701年)や養老律令(718年制定、757年施行)で規定されたもので、原則として6歳以上の男女に口分田を支給し、受給者が死亡すると国家に返還させるという形式をとっていました。これは、土地が国家の所有物であるという「公地公民制」の思想に基づいています。そして、支給された口分田からは租(稲の収穫物に対する税)、調(各地の特産物など)、庸(労役、または布による代納)といった税が徴収され、国家財政の基盤となりました。

しかし、史料を詳細に検討すると、この制度が抱えていた構造的な問題や、実際の運用における困難が見えてきます。

まず、土地の再分配には、全国の田地面積、人口、年齢構成などを正確に把握することが不可欠です。そのための基礎情報となるのが戸籍(人民の身分や氏名、年齢などを登録)と計帳(戸籍を基に作成される税負担の元となる帳簿)でした。しかし、広大な国土と当時の技術水準では、これらの帳簿を正確かつ頻繁に作成・更新することは極めて困難でした。史料からは、戸籍や計帳の作成・更新が滞ったり、内容が不正確であったりした実態がうかがえます。これにより、班田の実務(誰にどれだけの土地を班給し、誰から収公するか)は常に混乱を伴い、制度の根幹が揺らぐことになりました。

また、土地の質や肥沃度には地域差があります。律令では土地の等級に応じて班給基準を調整する規定もありましたが、実際には均質な土地を過不足なく分配することは難しく、同じ面積でも生産力に大きな差が生じました。さらに、班田は基本的に居住地の近くで行われるべきでしたが、地理的な制約や土地の偏在から、遠隔地の土地が班給されたり、そもそも十分な口分田を確保できなかったりする地域も存在したと考えられます。

加えて、受給者が死亡した場合の土地の収公も、必ずしもスムーズには行われませんでした。遺族が耕作を続けたり、他者に勝手に貸し与えたりといった事例も少なからずあったと推測されます。これは、単に法令が守られなかったというだけでなく、当時の人々の土地に対する意識や、共同体内部での相互扶助といった社会慣習も影響していた可能性が指摘されています。

班田収授法の衰退:複合的な要因の相互作用

班田収授法は、8世紀を通じて徐々に形骸化し、9世紀には実質的に機能しなくなっていきます。この衰退は、単一の理由で説明できるものではなく、様々な要因が複合的に絡み合った結果でした。

最もよく知られている要因の一つは、土地の私有化の進行です。律令制下でも、墾田(新たに開墾した田地)については一定期間の私有が認められていましたが、8世紀にはいると、人口増加や食料需要の高まりを背景に、貴族や寺社による大規模な墾田開発が進みました。国家はこれを奨励するため、723年に三世一身法(墾田を三代に限り私有を認める)、そして743年には墾田永年私財法(墾田の永久私有を認める)を相次いで発布します。これらの法令は、一見すると律令制の根幹である公地公民制を否定するもののように見えますが、当時の国家としては、自力での大規模開発が難しい中で、荒地開発を促進し、国力を増強するための現実的な政策であったと考えられます。

しかし、これらの法令、特に墾田永年私財法は、私有地(後の荘園の起源の一つ)の増加を招き、公的な班田の仕組みから外れる土地が拡大することにつながりました。力を持つ貴族や寺社は、資力や権力を用いて大規模な墾田を開発し、これを不輸租田(税が免除される土地)とする動きを強めました。

また、人口の増加も班田収授法に大きな負荷をかけました。班給すべき人口が増える一方で、収公される土地は必ずしも十分ではなく、特に都周辺など人口密度の高い地域では、班給が滞りがちになりました。さらに、戦乱や災害、あるいは重い租税負担から逃れるために、戸籍から外れて浮浪・逃亡する民も増加しました。これにより、班田の基礎となる戸籍・計帳の信頼性がさらに低下し、制度の維持が困難になっていきました。

地方の実情も、制度の形骸化を加速させました。中央政府の支配力が必ずしも津々浦々まで及ばない中で、地方の有力者や国司の中には、班田を適切に行わずに、自分の利益のために土地を囲い込む者も現れたと考えられます。また、墾田永年私財法によって認められた私有地は、開発者の力によって保護される性格が強く、国家による均等な土地分配という理念とは相容れませんでした。

衰退のその先へ:荘園制への移行

これらの要因が複合的に作用した結果、班田収授法は事実上機能しなくなり、律令国家は土地と人民に対する支配力を失っていきました。代わって台頭してきたのが、貴族や寺社、武士などによる土地の私有化が進んだ荘園という形態でした。荘園は班田の仕組みとは異なり、開発者の私有地であり、多くの場合、国家からの租税や公的な立ち入り(不輸・不入)が免除される特権を持つに至ります。これは、律令制的な土地制度が崩壊し、中世的な荘園公領制へと移行していく大きな流れの一部でした。

班田収授法の衰退は、単に一つの法令が廃れたというだけでなく、律令国家が目指した理想的な社会システムが、当時の現実的な社会経済状況や人々の行動様式、さらには国家の支配能力の限界に直面して変容せざるを得なかった過程を示しています。教科書で描かれる理想像だけではなく、その運用上の課題や、複合的な要因による衰退の過程に目を向けることで、古代日本の社会構造や権力関係のダイナミズムをより深く理解することができるでしょう。班田収授法を巡る定説の裏側には、当時の人々の苦闘や、時代が大きく転換していくダイナミックな歴史の一面が隠されているのです。