歴史の裏窓

遣唐使廃止は本当に「唐の衰退」が理由だったのか? 定説に隠された国内事情と東アジア情勢からの考察

Tags: 遣唐使, 菅原道真, 平安時代, 外交史, 東アジア史

はじめに:遣唐使廃止と一般的な理解

日本の歴史において、中国大陸の先進的な文化や制度を導入するために派遣された遣唐使は、飛鳥時代から平安時代にかけて重要な役割を果たしました。しかし、894年に菅原道真の建議により停止され、事実上廃止に至ります。この遣唐使廃止の理由として、教科書などではしばしば「唐の国力が衰退し、渡航が危険になったため」と説明されることが多いです。確かに、当時の唐は安史の乱以降、節度使の割拠や黄巣の乱を経て衰退期にあり、渡航の安全性が以前より低下していたことは否定できません。しかし、遣唐使廃止は単に唐の衰退という外部要因だけで説明できるほど単純な出来事だったのでしょうか。実は、当時の日本の国内事情や東アジア全体の国際情勢といった、より複雑な要因が絡み合っていた可能性が指摘されています。この記事では、一般的な「唐の衰退」説だけでは見過ごされがちな、遣唐使廃止の多角的な背景について深く掘り下げていきます。

唐の衰退はどの程度影響したのか?

遣唐使が最後に派遣されたのは838年のことでした。そして、菅原道真が遣唐使停止を建議したのは894年です。この約60年の間に、唐は確かに大きく変質していました。特に875年に勃発した黄巣の乱は唐王朝に壊滅的な打撃を与え、中央集権体制はほぼ崩壊し、各地の節度使が自立傾向を強めていました。このような状況下では、かつてのような高度な文明や安定した社会制度を学び取る意義が薄れた、あるいは渡航自体が困難になった、と考えるのは自然なことです。

しかし、当時の日本にとって唐の文化や知識が全く魅力を失っていたわけではありませんでした。仏教や医学、文学といった分野では、依然として唐は東アジアの先進地域であり続けました。実際に、建議によって派遣は停止されたものの、日本からの商人や留学僧が個人的に唐へ渡航することはその後も続きました。これは、公式な使節団としての遣唐使派遣とは目的や規模が異なりますが、全く交流が途絶えたわけではないことを示しています。つまり、「唐の衰退」は重要な要因の一つではありましたが、それが唯一絶対の理由であったとは断定しがたい状況があったと言えます。

遣唐使派遣がもたらす国内への負担

遣唐使派遣は、国家事業として多大な費用と労力を必要とするものでした。数百人規模の使節団を組織し、複数の船を建造・維持し、長期間の航海と滞在を支えるには、膨大な財源が必要でした。律令制のもとで国家財政が比較的安定していた時期には可能だったこの事業も、9世紀後半になると状況が変化していました。

律令体制は徐々に弛緩し、国家による人民支配や税収の仕組みが効率性を失いつつありました。荘園の拡大や、地方の富豪層の台頭などにより、中央政府の財源は圧迫されていたと考えられます。このような国内の経済状況において、費用対効果が見えにくくなっていた遣唐使派遣は、国家にとって重い負担となっていた可能性があります。財政難にあえぐ政府にとって、高コストな海外使節団の廃止は、合理的な選択肢の一つとして浮上したのかもしれません。

また、過酷な航海による人的損失も見過ごせません。当時の船旅は常に危険と隣り合わせであり、遭難して多くの死者を出すことも稀ではありませんでした。これは、単なる経済的損失だけでなく、人的資源の観点からも国家にとって無視できない負担でした。

東アジア国際情勢の変化

9世紀後半の東アジア情勢は、遣唐使が始まった頃とは大きく異なっていました。特に、新羅との関係悪化は、遣唐使の航路選択に影響を与えました。従来の北路(対馬から朝鮮半島を経由するルート)は新羅との摩擦を避けるため使用しにくくなり、危険性の高い南路(五島列島などから直接東シナ海を横断するルート)の利用が増加していました。これは、渡航の危険性をさらに高める要因となりました。

一方で、日本は渤海との外交関係を維持・発展させていました。渤海使の来日や日本からの遣渤海使派遣は続き、大陸の情報は渤海経由でもたらされていました。また、個人的な商人や留学僧の渡航も続いていたことから、完全に大陸との情報網が断たれたわけではありませんでした。このような多元的な情報入手ルートの存在も、巨大な国家使節団である遣唐使の必要性を相対的に低下させた可能性があります。東アジアにおける日本の国際的な立ち位置や、情報収集・文化導入の手段が多様化していたことも、遣唐使廃止の背景として考慮する必要があります。

菅原道真の建議とその背景

遣唐使廃止を決定づけたのは、遣唐大使に任命されていた菅原道真の建議でした。彼は病気を理由に派遣辞退を願い出ると同時に、唐の現状や航海の危険性を訴え、遣唐使の停止を強く主張しました。この建議が朝廷に受け入れられたことは、道真個人の見識や政治的影響力もさることながら、当時の朝廷内部で遣唐使廃止に対するある程度のコンセンサスが形成されていたことを示唆しています。

道真の建議が単なる個人的判断だったのか、それとも特定の政治勢力の意向を汲んだものだったのかは、議論の分かれるところです。しかし、宇多天皇のもとで重用されていた道真が、当時の国内政治や財政状況、そして東アジア情勢を深く理解した上で建議を行ったことは間違いありません。彼の建議は、それまでの遣唐使を巡る様々な課題――高コスト、危険な航海、情報収集手段の多様化、唐の相対的魅力の低下といった要因が積み重なった結果として、朝廷が最終的な決断を下すための「引き金」となったと考えることができます。

まとめ:複合的な要因としての遣唐使廃止

結論として、遣唐使廃止は単に「唐の衰退により渡航が危険になったから」という一元的な理由で説明できるものではありません。確かに唐の衰退は重要な外部要因でしたが、それと同時に、当時の日本国内における律令体制の弛緩と財政難、航海の危険性増加、東アジア国際情勢の変化による情報入手ルートの多様化、そして菅原道真の建議という政治的プロセスが複合的に作用した結果であると理解すべきです。

遣唐使廃止は、日本が対外的に大きな転換期を迎えた出来事です。これ以降、日本は大陸文化の一方的な受容から、国風文化の発展へと向かいます。これは、単なる外部環境の変化への受動的な対応ではなく、国内的な発展段階や国際的な立ち位置の変化を踏まえた、ある種の能動的な選択であったと捉えることも可能です。遣唐使廃止の背景を深く掘り下げることは、当時の日本の国家運営や外交戦略、文化形成の複雑な側面を理解する上で、非常に示唆に富む課題と言えるでしょう。埋もれた史料や新たな研究成果によって、今後さらにこの出来事の理解が深まることが期待されます。