紫式部と清少納言は本当に「犬猿の仲」だったのか? 史料解釈と平安貴族社会の実態からの再検討
紫式部と清少納言、「犬猿の仲」説の根拠を問う
歴史上の有名人、特に文学者同士の関係性には、様々な俗説やイメージが付随することが少なくありません。平安時代を代表する女性文学者である紫式部と清少納言についても、両者が互いに反目し合う「犬猿の仲」であった、というイメージが広く流布しています。しかし、この通説は果たして史実に即したものなのでしょうか。限られた史料をどのように解釈すべきか、そして当時の平安貴族社会の背景を考慮することで、二人の関係性について新たな視点が得られる可能性があります。
二人の女性文学者と定説の根拠
紫式部は『源氏物語』を、清少納言は『枕草子』を著し、それぞれが日本文学史上不朽の傑作とされています。両者とも同じ一条天皇の中宮・藤原彰子(紫式部の主)や皇后・藤原定子(清少納言の主)に仕えた「女房」として、同時代の宮廷に身を置きました。異なる主人に仕えていたとはいえ、狭い宮廷内では互いの存在を認識していたと考えられます。
「犬猿の仲」説の主な根拠となっているのは、紫式部が著した『紫式部日記』中の記述です。この日記には、同時代の他の女房たちの言動や人物評が記されており、清少納言についても言及されています。具体的には、清少納言を評して「さばかりさかしだち、真名書きちらして侍るほどに、見るまによしなしと覚ゆる」といった趣旨の言葉が見られます。「賢ぶって、漢籍を書き散らしているが、よく見るとつまらない」と解釈されることが多く、これが清少納言に対する紫式部の批判、ひいては二人の不仲を示す証拠とされてきました。
『紫式部日記』の記述をどう読むか
しかし、『紫式部日記』におけるこの記述を、現代の感覚そのままに「個人的な悪口」「ライバルへの嫉妬」と捉えてしまうのは早計かもしれません。当時の宮廷社会には、現代とは異なる人間関係やコミュニケーションの規範が存在しました。女房たちは、自身が仕える主人(后や女御)の権威や評判を高めるため、また自身の教養や能力を示すために、しばしば他者への批評を行ったと考えられます。文学的な批評や人物評は、単なる感情の吐露ではなく、自己や自らが属する集団の立場を表明する行為でもあったのです。
紫式部が清少納言のスタイルを「賢ぶる」「つまらない」と評したのは、清少納言の明快で知的な、いわば「をかし」を追求する態度が、『源氏物語』のような「もののあはれ」を重んじる自身の文学観や、奥ゆかしさを美徳とする当時の貴族女性の理想像とは異なると感じたためかもしれません。これは、異なる文学的アプローチや価値観に対する批評であり、必ずしも人格否定や個人的な憎悪に直結するものではないと解釈することも可能です。また、紫式部が仕えた彰子のサロンは、定子のサロンに対抗する意味合いもありました。主人間の関係性が、仕える女房たちの相互評価に影響を与えた可能性も否定できません。
清少納言側の史料と当時の社会構造
一方、『枕草子』には、紫式部に対する明確な言及はほとんど見られません。これは、清少納言が意図的に紫式部について書かなかったのか、あるいは二人の間に日記に書くほどの直接的な交流や対立がなかったのか、様々な可能性が考えられます。『枕草子』が清少納言自身の感性や宮廷での華やかな日常に焦点を当てているのに対し、『紫式部日記』はより個人的な内省や他者への観察を含むという、作品の性質の違いも考慮に入れる必要があります。
さらに、当時の平安貴族社会は、現代よりもはるかに狭く、人間関係が濃密でありながらも、身分や立場、仕える主人によって行動が厳しく制約されていました。女房たちは、あくまで主人に仕える身であり、その言動は主人の威光にも関わるものでした。個人的な感情だけで、他の女房と激しく対立したり、公然と非難し合ったりすることが、常に許容されたわけではないでしょう。紫式部と清少納言の関係性も、このような複雑な社会構造の中で捉え直す必要があります。
なぜ「犬猿の仲」説は広まったのか
では、なぜ紫式部と清少納言は「犬猿の仲」であったというイメージがこれほどまでに広まったのでしょうか。一つには、彼女たちの文学スタイルの鮮やかな対比が挙げられます。『源氏物語』の抒情的で内省的な世界と、『枕草子』の観察眼鋭く知的な世界は、あまりにも異なって見えるため、作家同士も対立関係にあったと想像しやすかったのかもしれません。また、後世の文学史において、平安文学を代表する二人の女性作家として並べられる機会が多かったことも、比較や対比を生み、「仲が悪かった」というドラマチックな物語を付与しやすい土壌を作ったと考えられます。現代のメディアにおいても、こうした対立構造は物語として消費されやすいため、通説として定着していった側面もあるでしょう。
史料から読み解く多層的な関係性
結論として、現存する史料、特に「紫式部日記」の記述だけをもって、紫式部と清少納言が現代的な意味での「犬猿の仲」であったと断定することは困難です。紫式部の記述は、清少納言の文学的態度やスタイルへの批評であり、当時の批評文化や宮廷内の人間関係、あるいは自身が属するサロンの立場といった多層的な文脈の中で理解されるべきです。
二人の関係性は、単なる個人的な感情の対立に還元できるほど単純なものではなかった可能性が高いと言えます。異なる主人に仕え、異なる文学的才能を発揮した二人の女性は、互いを意識し、時には批評し合ったかもしれませんが、それは現代の想像するような敵対関係とは性質を異にするものだったかもしれません。当時の史料を現代の価値観で安易に断定せず、当時の社会構造や文化的背景を踏まえて多角的に読み解くことの重要性を改めて示唆する事例と言えるでしょう。