奈良時代の藤原氏繁栄は本当に「皇親排除」の一本道だったのか? 定説に隠された権力闘争と史料解釈の多様性
はじめに
奈良時代の政治史において、藤原氏が皇親勢力(天皇の子や兄弟などの皇族出身者を中心とする政治勢力)を抑えて権力を確立していった、という理解は一般的な定説として広く受け入れられています。藤原不比等とその子である藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が中心となり、長屋王のような有力な皇親を排除していった過程がその代表例として語られます。しかし、この「藤原氏による皇親排除」という図式は、当時の複雑な政治状況や多様な史料解釈の可能性を捉えきれているのでしょうか。歴史を深掘りすると、そこには定説だけでは見えない多層的な権力闘争の様相が浮かび上がってきます。
藤原氏台頭の背景と皇親勢力
藤原氏の権力基盤は、中臣鎌足に遡ります。律令制国家の構築に深く関与した藤原不比等は、娘を天皇の后とし、その所生の皇子を即位させることで外戚関係を通じて政治的な影響力を高める戦略をとりました。これは、特定の氏族が天皇家の外戚となることで政治的地位を固めるという、古代以来の慣行を発展させたものでした。
一方、皇親勢力は、血筋を基盤とする政治的な権威を持っていました。特に天皇に近い親王たちは、律令制における高位高官に就くことが多く、重要な政治的意思決定に関与していました。彼らは必ずしも一枚岩ではなく、それぞれの立場や支持基盤、思想によって内部に対立を抱えることもありました。藤原氏の台頭は、こうした皇親勢力が持つ政治的影響力に対する一つの挑戦であったと言えます。
長屋王の変をどう読むか
藤原四兄弟が権力を確立する上で最も象徴的な事件とされるのが、神亀6年(729年)の長屋王の変です。皇族の筆頭であった長屋王は、当時の有力な政治家であり、藤原四兄弟にとっては警戒すべき存在でした。『続日本紀』によれば、左京人密告により長屋王が謀反を企てたとして追いつめられ、自害に至ったと記されています。
この事件はしばarくの間、藤原四兄弟による権力奪取のための謀略、すなわち皇親排除の典型例として解釈されてきました。しかし、長屋王が当時推進していた政策(例えば、仏教に対する姿勢など)や、彼が多くの官僚から信頼されていたこと、当時の社会経済状況などを考慮に入れると、この事件の背景には単なる権力闘争に留まらない複雑な要因があった可能性も指摘されています。史料の記述自体が藤原氏主導の編纂である可能性も踏まえ、長屋王の変を藤原氏による一方的な皇親排除と断定するには、より多角的な視点と慎重な史料解釈が必要となります。長屋王自身の政治手腕や思想が、結果的に彼の立場を危うくした側面もあったのかもしれません。
藤原四兄弟の死と非藤原氏勢力の台頭
「藤原氏による皇親排除の一本道」という見方に対する最も大きな反証の一つは、天平9年(737年)に発生した天然痘の大流行でした。この疫病により、権力の中枢を担っていた藤原四兄弟が相次いで病死してしまいます。これにより、藤原氏の勢力は一時的に大きく後退しました。
彼らの死後、政治の中枢を担ったのは、橘諸兄や吉備真備、玄昉といった非藤原氏系の実力者たちでした。橘諸兄は皇族に近い立場にあり、吉備真備や玄昉は学者・僧侶として卓越した知識や能力を持っていました。この時期に彼らが政権を主導したことは、藤原氏の権力がまだ盤石ではなく、能力や実績に基づいた人材登用も行われていたことを示しています。もし藤原氏が一方的に皇親を排除し、他の氏族を抑え込むことに成功していたのであれば、このような非藤原氏勢力の台頭は困難であったと考えられます。
藤原広嗣の乱と藤原氏の反攻
橘諸兄政権に対して起こったのが、天平12年(740年)の藤原広嗣の乱です。広嗣は藤原宇合の子であり、四兄弟の死後、九州の大宰府に左遷されていました。彼は吉備真備と玄昉の専横を批判し、彼らの排除を求めて反乱を起こしました。
この乱は、表面上は橘諸兄政権内部の対立や地方の不満の噴出として捉えられますが、根底には非藤原氏勢力に対する藤原氏の反発がありました。しかし、乱は鎮圧され、逆に広嗣の属する藤原式家は打撃を受け、橘諸兄政権の基盤は一時的に強化される結果となりました。このことは、藤原氏の勢力が必ずしも常に優勢であったわけではなく、政治的な駆け引きや軍事的な成否によってその立場が変動したことを示しています。
藤原仲麻呂の権勢とその末路
藤原氏が再び政治の中枢に返り咲くのは、天平勝宝年間(749年〜)以降、藤原南家の藤原仲麻呂(恵美押勝)が登場してからです。彼は光明皇后(不比等の娘、聖武天皇の皇后)の後ろ盾を得て急速に昇進し、政治の実権を握りました。仲麻呂は太師という前例のない高位に就き、自身の氏族の繁栄を図りました。
仲麻呂の権勢は、単なる皇親排除ではなく、特定の皇族(孝謙天皇や淳仁天皇)との連携強化によって築かれた側面が強いと言えます。彼の失脚は、最終的に孝謙上皇(重祚して称徳天皇)と道鏡の関係深化や、仲麻呂が擁立した淳仁天皇との対立が原因でした。天平宝字8年(764年)の藤原仲麻呂の乱により、仲麻呂は滅ぼされ、彼が支えた系統の藤原氏や皇族も政治から排除されました。この出来事は、藤原氏の権力もまた、天皇や上皇との関係性、そして皇族内部の力学に大きく左右されたことを示唆しています。
まとめ:一本道ではない、複雑な権力ドラマ
奈良時代の藤原氏による権力確立の過程は、「皇親排除」という単一の目的のために一直線に進んだものではありませんでした。そこには、藤原氏内部での系統間の競争、皇親勢力内部の分立、天然痘のような偶発的な災厄、橘諸兄政権のような非藤原氏勢力の台頭、そして天皇や上皇の政治的判断や個人的な関係性など、様々な要因が複雑に絡み合っていました。
また、『続日本紀』のような主要な史料は、事件後に政治的勝者となった藤原氏によって編纂された側面がある可能性も否定できず、史料を読む際にはその記述の背景や意図を慎重に考慮する必要があります。長屋王や藤原広嗣、藤原仲麻呂といった人物の行動や思惑も、単に「皇親」対「藤原氏」という単純な対立構造だけで理解しようとすると見落としてしまう側面があるのです。
奈良時代の政治史は、定説とされる「藤原氏による皇親排除」という図式を超えて、多様な政治主体がそれぞれの思惑や状況に応じて複雑な駆け引きを繰り広げた、多層的な権力ドラマとして捉えるべきでしょう。埋もれた史料の再検討や、既存史料の新たな解釈を通じて、この時代の「裏窓」を覗き見ることにより、我々はより豊かな歴史理解へと到達できるのではないでしょうか。今後の研究によって、この時代の知られざる側面がさらに明らかになることが期待されます。