律令制は本当に「理想の中央集権国家」だったのか? 定説に隠された構造的欠陥と地方の実態からの再検討
導入:教科書の中の律令制と現実との乖離
日本の古代史において、飛鳥時代から奈良時代にかけて構築された律令体制は、中国に範をとった天皇を中心とする中央集権国家の実現を目指した理想的な制度として語られることが少なくありません。戸籍に基づいて土地を分配し、そこから税を徴収する班田収授法、国民を組織化し支配する公民制、詳細な官僚機構や刑罰規定などを備えた律令格式は、当時の東アジアにおける先進的な国家体制であり、日本が国際社会の中で独立した近代国家へと発展していく礎となった、という理解が一般的です。
しかし、歴史の記録やその後の律令体制の変質過程を丹念に追っていくと、この「理想」とされた体制が、構想された当初から様々な構造的な問題を抱えていたこと、そして中央の描く理想と、現実の社会や地方における実態との間に大きな乖離が存在したことが見えてきます。律令制は、単なる中央集権化の成功物語としてではなく、当時の社会状況や人々の動きとの複雑な相互作用の中で変容していった生きた制度として捉え直す必要があります。
理想と現実のギャップ:班田収授法を巡る問題
律令体制の根幹の一つとされる班田収授法は、表面上はすべての人民に公平に田地を分配し、そこからの収穫に応じて税(租)を徴収するという、公平かつ安定的な財政基盤を確立するための画期的な制度でした。しかし、この制度を維持するためには、膨大な人口と土地に関する正確な情報を把握し続ける必要がありました。
現実には、戸籍や計帳といった基礎的な台帳を作成し、それを更新していく作業は、当時の未発達な行政能力にとって極めて困難なものでした。人口移動や死亡を正確に追跡することは難しく、結果として戸籍上の人口と実際の人口にはずれが生じました。また、広大な国土のすべての土地を正確に測量し、分配することも容易ではありませんでした。
さらに、班田はあくまで「収授」、つまり一時的に与えられ、死亡すれば収公されるものでしたが、実際には私的な土地の保有や売買が徐々に進行していきました。人々の間で土地に対する私的所有の意識が根強く存在し、また有力者による土地の囲い込みも行われたと考えられます。班田収授は理想通りに実施され続けたわけではなく、その実態は地域や時代によって多様であり、制度疲労は比較的早い段階から始まっていたのです。
律令制が抱えた構造的な欠陥
律令体制が理想通りに機能しなかった要因は、班田収授法だけに限りません。制度そのものが抱えていた構造的な問題も大きかったと考えられます。
まず、広大な国土に対する統治能力の限界です。中央政府から派遣される国司には強い権限が与えられていましたが、交通や通信が未発達な中で、彼らが担当国の隅々まで中央の意向を徹底させることは不可能でした。結果として、国司はしばしば着任地の状況や在地勢力との関係に左右され、律令の規定とは異なる形で行政を行った可能性があります。
また、律令体制は詳細な官僚機構を定めていましたが、実際の官人の選任や運用には、律令が定める能力主義とは異なる、門閥や血縁といった要素が強く影響しました。これにより、必ずしも適材適所とはならない人事が行われ、行政の効率性や公平性が損なわれる要因となった可能性が指摘されています。
さらに、律令国家の財政基盤は、基本的に個々の農民からの直接的な徴税(租・庸・調)に大きく依存していました。これは、個々の農民が安定的に生産活動を行い、かつ逃散などせずに定められた税を納め続けることを前提としています。しかし、飢饉や疫病、あるいは重い負担からの逃避などにより、農民が共同体や土地から離れる事態が発生すると、国家の財政はたちまち危機に瀕しました。不安定な農業生産と、それに依存する財政構造は、律令国家の脆弱性の一つでした。
地方における「実態」:律令の変容と在地社会
中央で定められた律令は、そのまま地方に「降りて」実施されたわけではありませんでした。地方には古くからの社会構造や慣習があり、律令の規定がそれらと衝突したり、あるいは組み合わされたりする中で、独自の変容を遂げていったと考えられます。
国司は、中央の役人であると同時に、その任地においては絶対的な権力を持つ存在でした。彼らはしばしば自己の利益のために、あるいは現実的な統治の必要性から、律令の規定を弾力的に運用し、時には逸脱することもありました。また、国司が現地で獲得した権益を基盤に、任期後もその地に留まるなどして、新たな在地勢力となるケースも見られました。
さらに重要なのは、郡司や里長といった末端の支配者層、そして彼らのもとにある人民の動向です。彼らは律令体制の最前線であり、彼らの現実的な行動や思惑が、制度の運用に大きな影響を与えました。戸籍作成の協力、班田の実行、税の徴収といった業務を担う彼らは、中央や国司の意向と、自身が属する在地社会の論理との間で揺れ動き、時には在地社会の利益を優先する動きも見せたでしょう。
特に、公地公民制が建前であったにもかかわらず、有力貴族や寺社、あるいは地方の有力者による私的な土地の集積(荘園の形成へと繋がる動き)は、律令制の理想を根底から覆すものでした。これらの動きは、単なる不正行為として片付けられるものではなく、当時の社会経済的な変化や、土地に対する権利意識の多様化といったより深い要因によって促進されたと考えられます。地方におけるこうした実態が、律令体制の変質を不可避なものとしていったのです。
まとめ:律令制理解のための多角的視点
このように、日本の律令制は、単に中国の制度を輸入して理想的な中央集権国家を築いたという一面的な理解だけでは捉えきれない、複雑で多様な実態を持っていました。律令の条文が示す「理想」と、それを運用する上での「現実」、中央の意向と地方の「実態」、構造的な限界と社会の「変化」といった多角的な視点から見直すことで、律令制は最初から変質を内包した、あるいはむしろ変化に対応しながら存続したシステムとして捉えることができます。
班田収授法の崩壊や荘園の増加といった現象は、律令制の「失敗」を示すものではなく、むしろ当時の社会や経済の変化に適応しようとした結果、あるいは適応しきれなかった構造的欠陥の現れとして理解すべきでしょう。律令国家は、その後も体制を大きく変容させながら存続し、中世以降の社会にも大きな影響を与え続けました。律令制を静的な理想像としてではなく、ダイナミックに変容する生きた制度として深く掘り下げていくことは、古代日本史のみならず、その後の日本社会の成り立ちを理解する上で、極めて重要な視点と言えるでしょう。今後の史料研究や、社会経済史・法制史といった様々な分野からのアプローチによって、さらに新たな実態が明らかになることが期待されます。