大化の改新は本当に「クーデター」だったのか? 定説に隠された改革の実態と史料解釈の多様性
定説としての「大化の改新」
日本の古代史において、「大化の改新」はしばしば、飛鳥時代の645年に中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我蝦夷・入鹿親子を滅ぼした乙巳の変に始まり、天皇を中心とする中央集権国家を目指した一連の政治改革として理解されています。学校教育などでも、この出来事を契機に班田収授法や租庸調といった律令制度の萌芽が始まった画期的な事件として扱われることが一般的です。これは主に正史である『日本書紀』の記述に基づいた定説と言えるでしょう。
しかし、「歴史の裏窓」として、この定説を鵜呑みにするのではなく、その裏側に隠された複雑な実態や史料解釈の多様性に目を向けてみたいと思います。大化の改新は、本当に教科書で語られるような、短期間で理想的な中央集権国家への道を切り開いた、単なるクーデターとそれに続く直線的な改革だったのでしょうか。
『日本書紀』が描く「改新」とその限界
大化の改新に関する情報の大部分は、養老4年(720年)に完成した『日本書紀』に依拠しています。同書には、乙巳の変の詳細や、続く大化2年(646年)正月に発布されたとされる「改新之詔(かいしんのみことのり)」の内容が具体的に記されています。改新之詔には、従来の土地・人民私有(屯倉・田荘、部民制)の廃止と公地公民制への移行、都や地方行政区画の設置、関塞・斥候の設置、戸籍・計帳の作成、班田収授法に基づく土地・人民分配と税制(租庸調)の導入などが盛り込まれており、これは後の律令国家体制の根幹をなす政策目標として描かれています。
しかし、現代の歴史研究では、『日本書紀』の記述、特に改新之詔の内容が、当時の実態をそのまま反映しているのかについて慎重な見方がされています。改新之詔に記された政策の多くは、実際には大宝元年(701年)の大宝律令や養老2年(718年)の養老律令によって初めて本格的に導入された制度であり、646年の時点でこれらが計画通り実行されたとは考えにくいという指摘があります。
これは、『日本書紀』が編纂された時代、すなわち律令国家体制が確立した後の視点から、それ以前の出来事を記述しているため、当時の政治的状況や制度を、編纂時点の理想や現実に合わせて「遡って」潤色した可能性が否定できないことを意味します。特に、大化の改新を日本の天皇中心的な律令国家の出発点として位置づけることで、その正統性や理想的な姿を強調しようとする意図が働いていた可能性が指摘されています。
したがって、『日本書紀』に描かれた「大化の改新」は、当時の歴史的出来事を記録した史料であると同時に、編纂された時代の政治思想や国家理念を反映した、ある種の歴史叙述として捉える必要があるのです。
クーデターの先にある複雑な政治過程
乙巳の変は確かに突発的なクーデターとしての側面が強い出来事でした。しかし、その後の「改新」と呼ばれる一連の動きは、単一の指導者の明確な計画の下で直線的に進んだものではなく、むしろ当時の複雑な政治状況の中で試行錯誤を繰り返しながら進められた多層的なプロセスであったと考えられています。
乙巳の変後、孝徳天皇が即位し、中大兄皇子が皇太子、中臣鎌足が内臣となり、阿倍内麻呂や蘇我石川麻呂(蘇我蝦夷の弟)といった有力豪族が左右大臣に任命されるなど、新たな体制が構築されました。この人事は、蘇我氏本宗家は排除されたものの、他の有力豪族との協調の上に成り立っていたことを示唆しています。つまり、中大兄皇子らが単独で全ての権力を掌握したのではなく、既存の権力構造とのバランスを取りながら改革を進めざるを得なかった実態があったと考えられます。
また、難波への遷都や、その後の飛鳥への再遷都といった動きは、新政権内部での対立や畿内における権力基盤を巡る葛藤があったことをうかがわせます。孝徳天皇と皇太子である中大兄皇子の間には深刻な対立が生じ、皇太子や主要な群臣が飛鳥へ戻ってしまうという事態に発展しています。これは、大化年間における政治改革が、単一の目的や意思の下に進められていたわけではない、複雑で不安定な状況の中で行われていたことを明確に示しています。
改新の詔に記されたような理想的な公地公民制や律令制度も、現実には豪族による土地や部民の私有は容易には解消されず、律令体制の確立までにはさらに長い時間を要しました。これは、改新が単なる上からの命令ではなく、当時の社会構造や有力豪族の抵抗といった現実的な制約の中で進められた、漸進的な改革であったことを示唆しています。
「改新」の多義性
「大化の改新」という言葉自体も、後世に与えられた歴史的な意味合いが強い可能性があります。『日本書紀』ではこの一連の改革を「改新」と表現していますが、当時の人々が自らの時代を「改新」と認識していたかは定かではありません。
しかし、この時期に倭国が改革を目指した背景には、当時の東アジア情勢、特に新羅と唐の勢力拡大、そして百済・高句麗の衰退・滅亡といった国際環境の変化が大きく影響しています。周辺国家が律令体制に基づく中央集権国家を形成する中で、倭国もまた国家体制を強化し、対外的な危機に対応する必要に迫られていたことは間違いありません。大化の改新は、こうした国際的な圧力やモデル(特に唐の律令制)を強く意識しつつ、国内の権力構造や社会経済的な実態と折り合いをつけながら進められた、国家としての生き残りをかけた改革の端緒であったと理解することもできます。
定説のその先へ
大化の改新は、単に蘇我氏を滅ぼしたクーデターという衝撃的な事件だけでなく、その後に続く長期にわたる国家建設、権力構造の再編、社会制度の変革といった多層的なプロセス全体として捉えるべきでしょう。『日本書紀』という主要史料の編纂意図や時代の制約を理解しつつ、同時代史料や他の史料断片、考古学的な成果などを総合的に検討することで、教科書的な定説からは見えてこない、当時の人々の思惑や政治のダイナリズム、改革の困難さといった「裏側」が見えてくるのです。
大化の改新は、単に過去の出来事として学ぶだけでなく、史料をどのように読み解き、歴史の真実にどのように迫るかという、歴史研究の奥深さを示す格好のテーマと言えるかもしれません。改革の実態や史料解釈を巡る研究は現在も進行中であり、大化の改新の「真相」に迫る新たな発見が今後も期待される分野です。